死産の体験

死産のこと

死産 とは、妊娠12週以降に死亡した胎児を出産すること

私には3人の元気なこどもがおります。

そして実はお空に還ってしまったこどももいるのです。

数年前の死産体験であることと、ありがたいことにそばにいてくれる元気なこどもたちとの生活で、記憶がおぼろげではあるのですが…。

この死産の体験を書こうと思った訳

誰かに聞いてほしい!って思いがずっとあったのです。

正直重たい内容ですし、聞かされた人はどう思うか?

誰かを傷つけてしまうかも?

でもほかの死産された体験も聞いてみたいな。

このまま黙ってなかったことにするのも寂しいよな。

…言葉にならない色々な気持ちがあります。

同じような状況にある人には特に、一つでも多くの体験談が必要だと思ったのです。

なぜなら自分がそうだったから。

診断を受けてから時間があれば検索し、専門的なページをみたりもした。けれど正直難しすぎてよく分からない。

結局心に寄り添ってくれたのは、普通の人のブログでした。

だから私も、たくさんの体験談の一つとして、誰かの役に立てたら、心に寄り添えたら、とずっと思ってきました。

デリケートな内容なので、誰かを傷つけてしまうこともあるかもしれず、怖い気持ちもありますが、勇気を出して踏み出してみようと決めました。

また、死産を経験した当事者でないと分からないこともあり、身近でそういう経験をした人がいる場合に、どんな気持ちでいるのか知ってもらえたらいいなとも思っています。(かなり個人差があり、あくまでも私の場合、ということになってはしまいます。)

まとまらない気持ちや、衝撃的な表現、反してあいまいな表現・記憶も多くなることをお許しいただければと思います。

今から2年ほど前のことです。

はじまりは3回目の妊娠

既にこのとき2人の子どもがいました。

特に経過に大きな問題はなく、元気に生み、育ててきました。

はじめは夫が好きすぎて こどもなんていらない と言っていた私が

いつからか 子どもは3人欲しいかも… なんて思い始めながらも、まだまだ2番目の子が小さく、授乳中で手もかかる。

そんなときに思いがけず授かり、こんなに早く3人の子どものママになれるの?!しかも年子になるかもしれない…と戸惑いとうれしい気持ちとの中でふわふわと普段通り過ごしていました。

実は少し先に姉も妊娠していて

里帰り出産やら、そうなるとサポートがまた父だけだからどうか…なんてなっていたところに自分も妊娠。

(母が亡くなっています。その話も書きたいのです。)

正直自分の家族に打ち明けるのには勇気がいりました。

実際、え!もう?まだ2人目小さいじゃん…というような反応で、苦しかった記憶があります。

しかしながら妊娠初期、少量の出血がありましたが、そんなに珍しいことでもないようで、おなかの子も元気に育ってくれているようでした。

なかなかお腹が大きくならないけれど、妊娠を知っている友人から 分からないね~ なんて言われても気にせず過ごしていました。

安定期に入った検診で…

つわり(比較的軽い方なんでしょうが…それでも辛い!これは比べるものではないですよね(T_T))が落ち着き、安定期といわれる週を超えての検診を受けた11月のある日。

いつも通り優しい先生とエコーを見ながら、

ちょっと小さめだね、果物を食べるといいみたいだよ!

分かりました~

なんて話して診察室を出たのです。

この日は2番目の子は一時保育に預けることが出来たので、この後どこでランチして迎えに行こうかな~なんて思っていたら

なぜかもう一度先生に呼ばれました。

やっぱり週数に比べてかなり小さく、気になるので念のためこども病院を紹介しますので診てもらってください と。

そこから別室で看護師さんに手続きの仕方を教わったり、お会計をしたり。

車に戻って、こども病院に受診予約の電話をし、あぁ…と思って夫に電話をして。

やっとここで泣きました。

何を話したのか覚えていないけど、

どうしよう

とか

病院に行く日は休みとれるかな?夫婦一緒に来てくださいってことだったよ

なんて話をしたのはなんとなく覚えています。

こども病院へ

全国的にも有名なこども病院に紹介状を出していただき、ドキドキしながら向かいました。

まさか自分がこの場所に行くことになるなんて。

今まで2回とも普通の妊娠出産してきたのに…先生がよほど心配性なのかな~。

と不安な気持ちと打ち消したい気持ちでぐちゃぐちゃ。

受付などを済ませて、ようやくエコー診察。

とっても長い時間をかけて、こちらの体調も度々気にかけていただきながら、丁寧に診ていただいたのが印象的でした。

そして診察室で

胎児発育不全(FGR)

羊水過小傾向

胸郭定形性疑い

消化管狭窄もしくは閉鎖疑い

について、言葉や写真、図で丁寧にお話していただきました。

今は小さいかれど、ここから緩やかにでも大きくなっていけば、この病院であれば小さくても出産すれば命は助けられる。

でもこのままほぼ横ばいで大きくならなければ…おなかの中で亡くなってしまうだろう、ということでした。

そして次回の予約をして病院を後にしました。

病院で印象的だったのが、みんな辛かったり、大変な状況だろうに、ここにいる親御さんたちはとてもきれいでキラキラしているな…ということでした。

向き合うこと 

きっとここから少しずつ大きくなって、小さ目な赤ちゃんが生まれるんだ。

1人目の子に比べて2人目の子は小さかったし。

だけど

おなかで死んじゃったら?

生まれても初めから病気や障害のある子が生まれたら?

今この元気すぎる2人と過ごすことも毎日精一杯なのに?

この子たち見ながら私だけで通院できるの?みきれる?

とにかくいろいろ正直な…きたない気持ちと向き合う日々で、とても苦しかったです。

でも夫と割と正直に話が出来たし、夫はかなり淡々としている?タイプなので、自分だけがドロドロの汚い気持ちにまみれて沈んでいくような状況にはならなかったので救われたような記憶があります。

そして私の淡い期待(もしかして大丈夫なのでは)を普通に突っぱねてくれたので、ある意味よかったのかな。

先生のあの話の感じ、ないと思う、多分おなかで死んじゃうんだと思う、とはっきり言ってくれた。

傷を舐めあうような、心が温まるような、そんな関係ではないのですが、それでよかったんだろうなって思うんです。なんでだろう。

そしてやはりほぼ成長がなく、羊水も減っていってしまい、胎児死亡を待って出産する、ということになりました。

辛かった、けど、突然の別れよりは、事前に知れてよかったのかなと思います。

辛い気持ちと向き合う時間もあってよかったし、だからこそかなり落ち着いてその日を迎えられたと思うのです。

周りに報告をして準備をしたり

見えないけれど、思いで作りとしてディズニーランドへ出かけたりもしました。

周りへの報告

仕事もしておらず、転勤族でなおかつそんなに身近に友達がいるタイプでもなく、妊娠を報告している人が少なかったし、見た目にもそんなにおなかが大きくなっている訳でもなく…という状況でした。

それでも

こども

家族

支援センターや幼稚園の先生

数少ない知っている友人

に報告をしなければなりませんでした。

1番目の子は当時3歳でした。

下の子が既にいることと、大分話が分かってきていたので、赤ちゃんがおなかの中にいることをちゃんと話していて理解してくれていたと思います。

赤ちゃん大きくなれないんだって、おなかの中で死んじゃってから生んであげることになったよ。赤ちゃん生まれないよ。と、なんと伝えていいか分からないなりに、頑張って説明しました。

えー なんて分かっているのか分かっていないのか…?な返事をする日もあれば、急に なんで赤ちゃん生まれないの!! と怒って聞いてくることもあったを覚えています。

実家、義実家の家族にも順に話をしていきました。

友人にも直接会えない人が多かったのでほとんどラインで報告。

正直言われた方もどうなのかな~?と憂鬱な気持ちでしたが、死産後の方がもっと重たい気持ちになるかも、と思ったので、事前に話しておきました。

結果、やはり産後はそれなりに辛い気持ちになったので、事前に報告しておいてよかったなと思っています。

こどもがよくお世話になっていた支援センターの先生にもお話しました。

そこではかなり傷ついて(すごく余計なことを言われた)、それ以来その先生とはほぼ目を合わせられなくなってしまいました。

その日がきた

年を越すのは厳しいかな~といわれていた。

12月に入ってから胃腸炎やインフルエンザにもなってしまったにもかかわらず、年末の診察で ぴょこん と元気に動くおなかのこ。 

年越しもして、もしかして、頑張って生まれちゃう?なんて思って過ごしていた年明け。

新しい年の初めの診察で、エコーをあてた瞬間、先生がいつもと違った。

周りに確認をとった。

あぁ、と思った。

心の準備は出来ていたし、その日がいつきたって大丈夫だと思っていた。

それでも涙が出た。

なぜかは分からない、気持ちとしては本当に落ち着いていたのに。

でもそれが母親であるということなのかなと思う。

数日前に亡くなっていたと思う、と。

もともと小さくて胎動もあるようなないような、な感じだったので、正直よく分からなかった。

でも診察の2~3日前くらいの朝、きゅーっておなかが張る感じがしたのを覚えてる。

その後はいつおなかから出してあげようかと、入院の日取りを決めて帰って、急いで準備をしました。

3回目の妊娠、入院、出産。

だけど生まれてくる赤ちゃんのための用意はなくて。

すごく楽だったよ。

でもなにができる?と必死に考えて、裁縫道具と上の子たちも使ったおくるみを、おなかのこのために持っていきました。

出産

入院中は、2人の子は義理の実家にお世話になりました。

やはり女手がないと小さいこどものお世話は厳しいよな、と。

義父に送ってもらって、1人病院。

コウノドリでみたことあるなあ、死産。

産声のない出産を、自分もするのかあ…。

なんて割と冷静に考えていたなと思います。

それだけの気持ちの整理をする時間を与えてくれたこに感謝しなくてはいけないな、と今でも思います。

バルーンを入れたり、促進剤を使って、無理やり陣痛を起こしていきました。

1人でいる時間はとても不安で苦しかった。

夫が会いに来てくれて、ようやく落ち着いて。

でもその日はお産が進み切らず、翌日に。

次の日の夕方に、小さなこが生まれました。

陣痛がピークになって、次のタイミングでいきんでみようか

というところから、スッと陣痛が来なくなって。

小さすぎて産道で止まっちゃってたんだって、先生が出してくれて、ようやくお外に出てきてくれました。

28週2日 272gの小さな男の子。

対面した赤ちゃんは、小さくて、本当に未発達な感じ。

体はしっかり形があるけどとにかく小さくて赤くて。

目が開いていて…。

責められているような気持ちになった。

2人も元気な子を産んでいるのになんで自分はこんなことになったのか、苦しかった、と。

その夜は怖くて眠りにつくのが難しかった。

産後の不安定な気持ちに看護師さんが寄り添ってくれて本当に救われた。

夫は泊まってくれていたけれど、隣で爆睡していた。お疲れ様。

(怒ってないし、仕事忙しい中都合つけて、上の子たちも見ながら駆け付けてくれていたから仕方ないし当然だと思っています。理解のある妻!笑)

次の日から火葬の日まで、棺に合うサイズの布団や枕を作ったり、小さな肌着を作った。

新しい布でなく、上の子たちにも使ったおくるみを使った。

家族のにおいが伝わればいいなと思ったから。

こどもたちもお手紙(字が書けなかったから絵だけど)をたくさん書いてくれて、私も書いて、夫も書いて。

死産届を書いて。

お花を手配して。

火葬の申し込みとかは夫がしてくれた。

骨壺も探してくれた。

生んだ日は怖くてできなかった抱っこもした。

どんどんとろけてきてしまうので、カッと開いて見えた目も和らいで

責めてないよ、ママやパパのことしっかり見たかっただけだよと言ってもらえたような気持ちに勝手になっていって。

朝いつもこどもたちと見ているEテレを隣で見てみたりもした。

もっと何かできたのかもしれないけれど、子煩悩なタイプではない私なりに、上の子にしているのと同じようなことできたかなあ、と思う。

母の写真も見せてあげた。

おばあちゃんも天国にいるから、探してね って。

火葬

朝から病棟の助産師さん看護師さんたちや先生方が順に部屋に来てくれて、こどもの周りにお花と小さな折り紙をプレゼントしてくれた。

やっぱり涙が出て出て止まらなかった。

時間が来て、普通の出入り口ではないところから出発した。

とてもきれいな火葬場だった。

お別れのとき、実父義両親も来てくれて、棺を開けて見ていたけど、とても複雑な気持ちだった。

見ないでほしいなと思った。

(何故かは分からない。)

こどもには見せなかった。

怖いかなと思ったから。

だけど未だに言われる、見たかったよ って。

どうするのが良かったのだろうか、今でも時々考えるところです。

病院の方のお話では、こどもは結構素直に受け入れてくれる子が多いですよ、との事だったので、見せてあげてもよかったかなあ…でもそのときもちゃんと考えて見せない、と決めました。

お骨に対面して、小さかったから骨なんて全然残らないと思っていたのに、結構ちゃんと残ってくれていたことに驚いた。

自分のこどものお骨を拾うなんて最初で最後にしたいと苦しい気持ちでいっぱいだったし、それは今でも変わらない思いです。

ちなみに今もお骨は自宅にあります。

死産後の生活

火葬が終わって、入院も普通の出産と同じようにさせていただき、ゆっくりとした時間が過ごせました。

退院するのが怖かった。

知っている人に会うのが怖くて、話すのが億劫で。

こどもを幼稚園に通わせていたのですが、バス停で一緒のママさんに会うのが辛く感じ、バス利用をやめたり、支援センターに行くことを控えたり。

しばらくしたらコロナが流行りはじめて、人に会えない、外に出にくい状況になったので、タイミングとしてはありがたかったような。

でもまたわが子を失うのでは、と怖かった思いもありますね。

そんな感じでご時世が見方をしてくれて、ゆっくりと元の生活に戻っていくことが出来ました。

そして何よりも、ありがたいことに私のもとにはもうすでに2人のこどもがいてくれたので、どっぷりと落ち込んでいる暇がなかったです。

本当にありがたいことだし、2人のことをもっと幸せにしてあげたい!と何度も思うのですが…すぐイライラ母ちゃん発動してしまい、あまりいいママではありません。

だけどそれでも大切に思う気持ちは嘘ではなく、お空に還ってしまった命を忘れずに、これからも前を向いていかなくてはと思うのです。

上の2人のこどもたちは、今でも毎日お空に還ってしまった子に思いを馳せてくれます。

今どこにいるのかな?

とか

今何してるのかな?見ててくれてるかな?

なんて普通に話してくれて、とってもいい子たちです。

みんながいてくれるから、今も私は元気に生きているなと思います。

死産の原因とその後

出産が終わっても数回病院を受診する機会がありました。

産後の経過観察と、甲状腺機能低下症の疑いがあったためです。

(私は以前バセドウ病を患っていましたが、結婚数年前には治癒し、再発はしていません。)

産後の経過はとても順調で、すぐに生理も再開しました。

(これはやはりちょっぴり悲しい気持ちもありました。)

産後、調べられる範囲で赤ちゃんや胎盤などの検査をしていただき、染色体や骨などの異常はなく、この死産はたまたま起きてしまったことであると先生からお話しいただきました。

着床する位置があまりよくなくて、根っこをしっかり張ることが出来ず、成長が出来なかったのでは、ということでした。

甲状腺機能低下症は潜在的にあり、何かのタイミングで症状が出るかもしれないので、時期を見て定期的に調べておくのがよさそうだということで、通える範囲の病院に紹介状を書いていただき、こども病院での受診を終えました。

まとめがうまく出来ないのですが…その後もう一度赤ちゃんを授かり、元気な男の子を出産しました。

もちろん死産は辛い体験でしたが、大切な経験で、自分のや家族の中だけでなく、実は他の人にも死産について知ってほしい…と今は思っています。

振り返ってみて思ったこと

死産はとても辛い経験でしたが、いいこともありました。

【夫と過ごす時間がもてたこと】

既に幼いこどもがいたので、夫婦だけで過ごす時間が数年ぶりにできたこと。

最近はこどもを預けて2人の時間をつくる、というご夫婦も多いようで私も羨ましいと思うのですが、夫があまりそういうタイプでなく…。笑

ですが、この死産に関する通院は、毎回義理の実家にふたりのこどもをみていてもらって行っていました。

そのときに2人でランチをするのが毎回の楽しみでした。

辛い時なのに…という感じがあるかもしれませんが、だからこそ、そんなほっとするような、うきうきするような時間がありがたかったです。

通院の車中での2人だけの会話の時間も、死産をこれからする、または死産をした後で辛く苦しい中でしたが、貴重な時間だったなと思います。

そしてしておいてよかったこと

【産前に死産をすることを周囲へ報告すること】

私の場合は死産をするが来るまでに1か月くらいの猶予があったので、これをしておいてよかったです。

死産をした後は自分が想像していたよりも何とも言えない精神状態になったので…。

最後に周りの人にお願いしたいこと

【そっとしておいてほしい】

【でもこの死産について話たくなったときには聞いてほしい】

とても勝手なお願いだとは重々承知なのですが…

予定日あたりに陣痛が来て、元気な赤ちゃんに会えることが普通だと思っていたのに(当たり前とは思っていなかったつもりだったのですが…つもりでした。)

それが叶わなくなった

ましてやもう亡くなってしまったわが子を、陣痛をおこして、こじあけて、出産する

恐怖感、喪失感、虚無感…。

こんな死産の経験をしたら、普通に見えても普通になれないし、周りへの気遣いも、普段通りにはできません。

私の場合はは家族(ここでは夫とこどもたちのこと)以外の、人に会うのが辛かったし、基本話したくなかったです。

だから、そっとしておいて。

でも、自分から この人になら死産のことを話せる と感じる人はそんなにいないので、もし負担でなかったら、興味本位でもいいのです、話を聞いてください。

そうだねつらかったね、とはなしを聞いてほしいのです。

辛かったこと、その子が存在していたことを、知って認めてほしいのです。

さいごに

思いをかたちにすることって大切ですよね。

もしよろしければ感想や反応いただけると嬉しいです。

母の死についても書いています。


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