骨髄異形成症候群だった母のはなし

日常

実母の死 についてです。

専門的なことは理解が追い付かず書けないのですが、患者家族としての視点、気持ちを書いていきます。

長くなりますので、お時間のある時に読んでいただけますと幸いです。

はじまりは

私自身も思い出したくないくらい。

姉の結婚式のとき。

(結婚式はとっても楽しく幸せでした。)

何も知らなかった。

知っていたのは時々大きな病院に検査を受けにいっていたこと。

骨髄異形成症候群 て知っていますか?

これを見てくださった方は、もしかして知っているからこのページに飛んでこられたのでしょうか。

MDS

骨髄異形成症候群

母が患っていた病気です。

どんな病気かというと…

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骨髄異形成症候群では、骨髄にある造血幹細胞(すべての血球すなわち赤血球、白血球、血小板の元になる細胞)に異常が生じるために骨髄が血球をうまく作れなくなります。そのため、血液検査を行うと赤血球、白血球、血小板の1-3種類の減少が認められます。症状はそれぞれの血球減少によるものとなります。すなわち、白血球が減少すれば免疫力が低下して感染症に罹患しやすくなりますし、赤血球が減少すれば貧血症状(倦怠感、動悸、息切れ、めまい)が生じます。また血小板が減少すると出血を止めることが難しくなり出血傾向(鼻出血あるいは脳出血など)を生じることがあります。

また一部の患者さんは急性骨髄性白血病に進行することがあることから、前白血病状態とも呼ばれることがあります。有病率は10万人あたり約3人、患者さんの年齢の中央値は65歳、男女比はおよそ2:1とされています。

https://www.osaka-med.jrc.or.jp/cancer2/each/cancer12.html

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と書いてありました。(大阪赤十字病院がん治療センター様HPより引用させていただきました。)

母の場合は、約15年ほど経過観察をしていたのですが

1~2年(15年の中のことなので経過観察を始めて13~14年目頃から)急激に数値が悪化し、急性骨髄性白血病の状態へ進行しました。

長くMDSを患っており、骨髄低形成状態からの白血病移行であったので、予後がよくないタイプでありました。

お医者さんから、5年生存率20%と示されたときは愕然としました。

検査入院からの突然の…

その頃わたしははじめての子どもを妊娠しており、夫が単身赴任中であったため、実家に暮らしていました。

妊娠7か月頃のある日

「今度検査入院で1~2週間くらい入院することになったよ。

なめこ(わたし)の出産前に体調整えるためだから。

検査入院だから、心配しないで。」

そんなことを母から伝えられました。

母が入院するだなんて初めてのこと。

もう何年も風邪すらひいている姿をみてこなかったのに。

驚いてすぐに泣いてしまったし、胸騒ぎしかなかったです。

母がどんな病名なのかをそのとき初めて聞き、ひたすら検索をしていました。

すると、とても大変な病気であること。

薬での治療もできるが、根治には骨髄移植が必要であること。

予後があまりよくない病気であること。

が分かりました。

予後 という言葉も、このときはじめて目にしました。

それでも母の言葉を信じようと必死でしたが、嫌な予感が的中。

検査入院とは名ばかりだったようで、担当のお医者さんは

家に帰せる状態ではないので、一刻も早く移植することを強く勧める

ということでした。

今の状態では普通の風邪であっても命にかかわるような状態だったそうです。

母も驚いていて、あまり言葉がでてこなかったように思います。

普通なのになー…というような。

でも

移植しないと治らないんでしょ。だったらするしかない。

と言っていました。

短期間で重大な決定をしなければならず、本人はもちろん、家族としてもとても苦しかったです。

しかし、母に生きていてほしい、母なら大丈夫だ!と思い(込み)、移植を受けてもらうために転院しました。

(検査入院の病院では移植はできなかったため。)

入院開始と造血幹細胞移植

とにかく一刻を争う状態(好中球500以下、重症な感染症をおこす危険性が高い。)でした。

どのような造血幹細胞移植を行うか話し合ったところ

臍帯血移植を行うことになりました。

理由としては以下の通りです。

母にあう臍帯血が見つかったこと。

骨髄移植より生着率は低いというデメリット以外は、他の移植に比べてなさそうだと感じたこと。

(メリット>>ドナーへの負担なし。移植後のGVHDといわれる免疫反応による合併症が比較的軽いといわれること。すぐに受けられること。)

血縁者も高齢であったり、体調に不安があった。

また子どもであるわたしは妊娠中、姉もいましたが、家族に負担をかけたくないという母の希望もあり、家族からの移植の検討はなし。

骨髄バンクにも母にあう登録がなく、待つ時間もないため。

決まるとすぐに臍帯血移植を受けるまでの日程が組まれ、準備が進んでいきました。

骨髄穿刺(マルク)を受けたり、髪の毛を短く切ったり、たくさんの点滴を受けたり、

首に点滴の入り口になる針(ルートっていうのかな)を入れたり、

これからの治療のために自分の骨髄にある細胞をなくすために強い抗がん剤を使った治療を受けたり…。

辛い準備だったと思うのですが、いつも気丈にふるまっていて、普段通りの母でした。

印象に残っているのは、入院して輸血を受けてから、母が元気になったことです。

ひどい貧血状態であったのに、長い時間をかけて病気が進行してきたせいなのか、母は自分の体の不調に気が付いていませんでした。

輸血を受けて貧血状態が改善されたことで、体の軽さを実感し、初めて気が付いたようです。

わたしからも、目がパッチリして、見た目からして元気になっているのが分かりました。

(いつも無理させていたんだろうな、ごめん…と思いました。。)

わたしたち家族も、必要なものを急いで買いそろえたり、車や電車で片道1時間くらいの病院でしたが、毎日お見舞いに行ったり、メールをこまめにしたり…思いつく限りのサポートをしました。

そうしないといられない心の状態でした。絶対に本人が一番辛いのですが…それを見守るしかできないのがとても苦しかった。。

臍帯血移植とわたしの出産

臍帯血…赤ちゃんとお母さんをつなぐへその緒からとれる血液なのだそうです。

母の誕生日の2日前が移植日でした。

移植自体はとてもシンプルで、注射器に入っている臍帯血を点滴の管に入れて、あっという間に終わってしまいました。

それから段々と抗がん剤の副作用やGVHDなんだろうな~という不調(発熱や下痢、脱毛や肌の色の変化が現れたり等)があったようで、辛そうな母を見ることが増えました。

わたしも臨月に入ってもお見舞いに行き続けました。

(さすがに37週以降は母ももう何かあったら困るから来ないで~!という感じだったので、控えました。)

母が安心して過ごせるように、料理や家事の手伝いをして、メールで今日こんな夕飯にしたよ~と送るり、自分を落ち着かせようとする日々でした。

父も仕事がある中でしたが、できる限りお見舞いに行き、慣れない家事をしながら妊婦であるわたしのサポート…と懸命に過ごしていました。

途中肺炎のような状態になり、このままでは危ないので、顆粒球輸血をしたい

という提案があり、県外から数時間かけて姉が帰ってきてもらったり。(結局顆粒球輸血はしなかった。)

でも好中球が500まで回復し、生着したよ!!の連絡がきたときはとっても救われる思いだった。

途中わたしの出産もあり、生まれてすぐに母に電話をしたことを思い出すと、今でも胸がギュッとなります。

本当なら生まれるのを同じ病院で待っていてくれるはずだったのに。

すぐに見せてあげるはずだったのに。

一緒に子育てしたいなと思っていたのに。

慣れない育児のスタートと、母のことを思って、毎日が苦しかったです。

退院まで

わたしも家に帰り、母の回復も順調で、退院の見通しも立ってきました。

と思ったら髄膜炎による発熱で、退院が延期になりました。

このことで

入院でが低下している退院後の母が、どこで生活するか

移植によって免疫力が赤ちゃんより低い状態の母を、この家で生活させることへの不安

が強くなりました。

あんなに待ち望んでいたはずの母の退院だったのですが、母を思うからこそ、不安で仕方がなかったです。

猫を飼っていたのですが、移植を受けて免疫が低い状態でペットを飼うことは、感染症のリスクが高いとのことで、これもどうしよう…と。

猫に関しては、かわいそうですが、ひとまずお世話になっていた動物病院に預かってもらえることになり、お願いしました。

そして出来る限りで片付けや掃除をしました。

寝室は2階でしたが、生活のしやすさを考え、1階の居間横の和室に布団を敷いてあげることにしました。

そしてついに母が退院してきました。

出産もあり、約1ヵ月半ぶりの再会でした。

見たこともないくらい痩せ細った母を見て、驚いたし辛かった。

でもやっぱり帰ってきてくれて嬉しかった。

退院後の生活

移植後の人は食べるものも注意が必要だったりして、そこも不安でした。

新鮮でないものはダメ、生ものはダメ、菌類はダメ、グレープフルーツはダメ、野菜は砂がついているとダメ…とか(わたしの認識違いがあったら申し訳ありません。)

制限なくいろんなものを食べたかっただろうな…と思います。

家で調理ももちろんしましたが、完全に清潔で新鮮である自信がないし、テイクアウトできるお店で作ったようなお弁当も不安で、コンビニ食や冷凍食品など個包装の食べ物が多くなってしまっていました。

だけど母と一緒に食べたセブンイレブンのフィナンシェがとってもおいしかったことを今でも覚えています。

生後1か月をすぎて、初めて孫に会わせてあげられた喜びもありました。

かわいいと言ってくれたこと、本当にうれしかった。

入院中に母が考えていたことなど、たくさん話をしました。

以前は話を聞く側であることが多かった母ですが、退院後、とてもおしゃべりになったように感じました。

移植すると血液型も変わったりするので、そんな変化もあったのかな~。(ドナーさんと血液型が違ってもHLAという白血球の型が一致すればよいのでドナーさん由来の血液型に変わるそうです。)

そうでなくても気兼ねなく話せる相手とやっと会えたので、あふれ出る話があったのでしょうね。

わたしも母が話してくれることが嬉しかったです。

今でも折に触れて思いだし、あのときこんなこと言っていたんだよ~と家族に話すことがあります。

母の退院後1ヵ月くらい経った頃に、わたしも実家を出て夫と子ども3人の暮らしをはじめました。

(このときペット可の物件に住み、預けていた猫と一緒に暮らしました。)

体力が低下していた母ですが、少しずつ元の生活に戻ろうと、料理をする日を作ってみたり、洗濯物を干したり、父と散歩に出かけたり、頑張っていました。

再入院から余命宣告

少しずつ過ごしやすい陽気になってきたことと、母も退院後の暮らしに慣れてきたようなので、お宮参りに一緒に行く約束をしました。

母がもっと元気になるように、病気がこのままよくなるようにのお願いも兼ねて…と思っていました。

お宮参りの約束の前夜、メールが届きました。

「熱が出て、入院することになっちゃった。

先生の言うこときいて、すぐに治して退院するから心配しないでね。」

合併症が起きたのです。

悲しかった。

けれど、母の前向きな言葉を信じて、予定通りお宮参りにいき、わが子の健やかな成長をお祈りしました。

桜がきれいに咲いている時期で、お花見もしました。

入院した病院から近いところに住んでいたので、毎日お見舞いに行きました。

顔の半分に麻痺がでてしまったり、熱が下がらず、頭が痛そうであまり話もできませんでした。

顔に麻痺が出たせいでご飯が食べにくかったようですが、食べないと元気になれない!と焦って食べていたようでした。

診断は髄膜炎。

初めの退院前に患った合併症と同じでした。

再入院から数日後、意識障害が出てきました。

薬も効かず、どんどんと意識障害が進んでいき、ついに眠ったままになりました。

今日は起きてくれるのではないかと毎日会いに行きました。

看護師さんもたくさん励ましてくださいました。

先生方も他の科と連携し話し合い、治療法を検討してくださいました。

しかし、打つ手はなく、呼吸が止まる、心臓が止まるときを待つだけである。もって数日。との話があったとき

その可能性を打ち消しながらも、心のどこかで覚悟はしていた。

けれど、苦しかった。

言葉にはできない気持ちでした。

最期の時

それから数日間、病院でゆっくりと家族で過ごす時間をとりました。

世の中は連休中。

とっても天気の良い日が続き、病室から見える景色が明るくとてもきれいでした。

だけど母と一緒に見たかった。

そんな言葉をかけてみても、母は眠っているだけでした。

無意識に点滴チューブをとらないように、手を固定してあったり、寝たきりなのでお風呂にも入れない状態だったので、

濡らしたタオルと、石鹸などを使って手をきれいに拭いてあげました。

それしかできることがないのが悲しかった。

顔を拭いてあげたりもした。

抗がん剤で脱毛していたはずの頭に、髪の毛がしっかり伸びてきていた。

頑張ったのにね、これからもっといろんな楽しいことがあったはずなのにね。

ある日の夕方、急に呼吸が弱くなり、あっという間に息を引き取りました。

たくさん お母さん と呼んだけど聞こえていたのかな。

もっとお母さんと話がしたかった。

いろんな場所に出かけたかった。

いろんなおいしいものを一緒に食べたかった。

子どもの成長を一緒にみてほしかった。

料理や家計のこと教えてほしかった。

お母さんが大好きだってことをもっと言いたかった。

ありがとうを言いたかった。

頑張り屋さんで、優しくて、ちょっと変わり者だけどかわいらしくて…

そんな母がこんなに苦しんで頑張ったのに、なんで。って思いが止まらなかったけど。

そんな母だったから、早く自由な世界にいったのかなと思いたい自分がいます。

(※わたしは無宗教です。が、これだけ頑張った人は幸せだけの世界にいけるといいな、と思わずにはいられないのです。)

現実やらなくてはいけないこと

ここまで気持ちや見守ってきた様子を書いてきましたが

余命宣告をうけた日から、動いたことがありました。

お葬式はどうするか、です。

基本すべてのことは父がしてくれたのですが、辛い中でもしなければいけないことがたくさんありました。

具体的にはこのあたりが参考になるかもしれません。

こんな辛いときに…という気持ちでいっぱいではありますが、やらなければいけないことがたくさんだからこそ、残された側はなんとか生きていけるのかもしれないな、と思います。

まだ身近では家族を亡くしたという人がいないので、なかなかこんな話もできず。

ずっと書きたかったことが、ようやく形になり、少しほっとしています。

もしよろしければ感想や反応をいただけると嬉しいです。

産声のない出産も経験しています。

読んでいってくださると嬉しいです。

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